マイナス7度の世界


この冬は全国的に記録的な寒波がやってきている。僕の住む村でも最低気温はマイナス7度を記録した。

軒下に置いたヤギの餌用の大根やブロッコリーの葉はカチカチに凍り、庭に置かれた手水鉢に張った氷はいつもより厚そうだ。外に設置されたトイレの水までもが凍ってしまった。僕が岐阜に戻ってきてから3年になるがこんなことは初めてである。マイナス7度の世界はまた違った光景を見せてくれる。このマイナス7の数字は記憶に残るだろう。記憶力が低下しているのに、こういったどうでもいい記憶だけは残るから不思議である。

そういえば4年ほど前、3月のヘルシンキの朝にリムジンバスから降り立った際、ビルに表示された気温もマイナス7度だった。11月から3月までの平均最低気温が氷点下で、マイナス30度の記録も持つこの街にとっては平凡な朝なのだろう。

しかし、30度を超えるインドはムンバイから移動してきたばかりの僕にとっては、かなりこたえた。寒さを通り越し、耳が痛いのと同時に鼻の頭もチリチリと違和感を覚える寒さである。寒さは尿意をもたらす。空港でトイレに行ったはずなのに既にトイレに行きたくなった。まだ朝も早く、店も開いていないので駅に向かった。

お金を払ったのだからと貧乏性の僕は写真を撮って出てきました。トイレにまで北欧らしいデザインを感じます。

構内にトイレは見つかったが有料トイレで1ユーロかかる。当時150円程度だったと思う。インドで1杯10円程度のチャイを飲んでいた僕にとって妙に高く感じられた。飲む時に金を払い、出す時にも金を払うなんて人間は、なんと無駄なことをしているのだろう。考察している場合ではなく、生理的な欲求はどんどん高まっていく。ポケットをさぐるが、1ユーロ玉がない。仕方なく内股気味で駅の売店まで走り、食べたくもないミントを購入し、その釣り銭で無事、用を足した。これもマイナス7度の記憶。凍った自宅のトイレの水を湯で溶かしながら、ヘルシンキの記憶を思い出す。

朝ラーメン考


藤枝のラーメンと冷やしラーメン。これは一度、機会があればお試しあれ。朝から2杯とも食べちゃうんだよなぁ。

寝る3時間前に食べない。特に飲んだ後のラーメンはもってのほかである。もし、そんなに食べたいのなら我慢して寝てしまい、朝、起きてからラーメンを食べよう。そうすれば一日かけてカロリーを消費することができるのだから。といつも飲んだ後にラーメンが食べたくなる自分に言い聞かせている。

福島県喜多方市や静岡県藤枝市では朝にラーメンを食べる文化がある。通称「朝ラー」。生まれた理由は諸説あるが、工場が多い喜多方市の場合、夜勤明けの方のために朝から営業している。喜多方産の醤油を使ったスープと太いちぢれ麺が特徴である。

朝が早い漁業や茶業が盛んな藤枝市の場合、一仕事を終えた方のために朝から営業している。魚介ベースの醤油だしなのであっさりしており、こってりスープが苦手な女性ファンが多いのもうなずける。また、ゆでた麺を水でさらし、冷たいスープをかけた冷たいラーメンがあるのも特徴で温かいラーメンと一緒に頼む人も多い。

数年前からは東京駅にも朝ラーメンが登場し、出勤前のサラリーマンで賑わっている。先日、新宿の歌舞伎町の朝を歩いている際、営業しているラーメン店を見つけ、思わず立ち寄った。歌舞伎町のホストに一番人気の店のようで、ラーメン屋にしては珍しく個室まである。僕が入ってからも何組かのホストとそのお客らしき女性が一緒に入ってきた。朝には少々、きつい豚骨ラーメンを食べながら考えるわけである。一応、僕は朝ラーなのだが、彼らにとっては締めのラーメンなんだなぁと。

それにしてもカロリーの高そうな豚骨ラーメンを食べたからには、今日は、たくさん歩かなくてはいけないなぁとため息をつきながら、豚骨のスープをすする。何ともおかしな話である。食べ過ぎて、脂肪がついたと痩せることを考え、ついには漢方薬まで飲んで…。どこか根本的におかしい気はする。人間の欲望というのはおそろしいですね。

末期がんの猫とニューヨークの朝


このところ即決を迫られるような話が続いた。元々、優柔不断な性格がちらほら顔を見せ、翌朝になると「あれでよかったのかなぁ」と思う。その後で、ふと思い出すことがある。

アメリカ同時多発テロ事件から2ヶ月後のニューヨークに行った時のこと。友人のマンションに到着すると猫が出迎えてくれた。その光景を見て友人が涙を流して猫を抱き締めた。状況がわからない僕は玄関先で立ち尽くすだけだった。実は猫は末期がんの状態でほとんど動かなかったが、久しぶりの来客を出迎えなければと彼なりに精一杯の力を振り絞ったらしい。  

そして、その日の夜中、猫に異変は起きた。素人の僕から見ても猫は呼吸すること自体が苦しそうだった。動物病院で猫の病状を見た医者は彼女に向かって静かに語りかけ、その言葉に反応して彼女は泣き崩れた。今以上に英語がわからない僕はただ猫をなでるしかなかった。

「イシコ…、決断してくれないかな…今の私には…無理」

泣きながら、途切れ途切れに彼女は日本語で訳し始めた。どうしても生かしておきたいのなら(といっても数日だが)、猫の痛みをとるためにモルヒネに近い注射を打つことができるし、このまま楽に死なせたいのなら安楽死させることもできるのだが、どうしますかと医者は尋ねているとのことだった。

ニューヨークには、かなりの回数行っていると思うんだけど不思議と写真が残ってないんだよなぁ。かろうじて夜景は残っていた。

「えっ?僕が今、即決するの?無理!無理!」

と口に出しそうになったが、彼女が判断することが難しいのは明らかだった。

パニックの頭をフル回転させた後、先生の経験上、今のこの状態の猫はどちらが幸せだと思いますかと尋ねてもらった。先生は安楽死という言葉は使わなかったが「楽にしてあげた方が…」と言った。そして、僕は「楽にしていただけますか?お願いします」と答え、猫を預け、彼女を連れて病室を出た。外は夜が明けようとしていた。肌寒い空気を感じながら、空を見上げ、お互い無言で熱いコーヒーをすすった。「あれでよかったのかなぁ…」と思いながら。

朝に庭を眺める訳


今日も庭に来ていた。朝、カーテンを開けた時に確認するのが、このところの楽しみである。来ていないとがっかりする。まるで、テレビで朝、流れる星座占いのようだ。決してそこまで気にしているわけではないが、いざ目に留まればついつい追ってしまう。

現在、僕が追っているのはジョウビタキ。僕が大好きな冬の渡り鳥のひとつである。オレンジ色の腹と翼の白い斑がトレードマーク。岐阜の自宅の庭に毎年、現れる。それも必ず一羽で。つまり一人旅。それも僕がこの鳥を好きな理由かもしれない。

「おぉ~、今年も旅行ってきたのかぁ」

毎シーズン、最初に庭で見かけると窓越しに声をかける。ユーラシア大陸全般が生息地の中、よくこの家を覚えていたものである。彼等は移動の際、太陽や地磁気などから場所を決めているらしい。そういった話を聞くので方向音痴の僕は更に憧れの鳥になる。とはいえ、毎年、同じジョウビタキである確証は何一つないのだけれど。

この鳥は人に対する警戒心が薄いようで僕がいてもあまり気にしない。窓越しではあるが、ほんの4,5メートル先の枝に停まることもある。現在、窓際に机を置き、庭を正面にして書き物をしている僕としては、かなり嬉しい光景である。

鳩も決して嫌いじゃないんですよ。ただ、灰色とオレンジ色だとどうしてもオレンジに目が行ってしまうだけなんです。

活動範囲はうちだけではないので、もちろん庭に現れない時もある。もし、その日が家に籠って書き仕事の日だったりすると、どこか落ち着かなくなる。書き物をしているうちにジョウビタキのことなど忘れてはいるものの庭に鳥がやってくると、自然に目はパソコンの画面からはずれてしまう。やってきたのが鳩だったりするとがっかりしたりもする。鳩には申し訳ないんだけれど。こうして、ふっとオレンジ色のお腹が見えた瞬間に笑みがこぼれる。
 
彼らがいなくなると間もなく春がやってくる。それまでは冬の朝を楽しませていただこうと思う。

本を表現媒体にしようとした理由


「本で表現しようと思ったのはなんで?昔はそんなことを言ってなかったよね?」
新年に会った友人と今年の抱負を述べながら飲んでいたら質問された。しかし、僕は唸るだけで答えることができなかった。

僕が本を表現活動の中心にすると言った時、長年の親友でもあり、マネージメントでお世話になっている女性からも猛反対された。僕が30歳までろくに本を読まず、文章を書き始めた年齢も遅い(本格的に始めたのは35歳を超えていた)ことをよく知っているからだ。大学で日本文学を専攻した彼女の言葉には説得力があった。時代に逆行しているとも彼女は言った。本離れが進んでいる、本が売れなくなっていると言われて久しいからである。その時にもどうして本を表現媒体にしたいのかの理由を聞かれたが答えることはできなかった。

ただ、いつそう思ったかははっきりと憶えている。オーストラリアはケアンズから車で30分くらいの場所に「パームコーブ」というこじんまりとしたビーチリゾートがある。30代終わりの頃、ここで一週間程、過ごしていた時のことだった。このビーチは朝陽が美しい。

パームコーブの朝陽の写真が見つからないので、ナコーンパノム(タイ)のメコン川の朝陽の写真でお許しください。

何日目かの朝だったかは忘れたが、その日は無性に書き物がしたくなり、ぼんやり明るくなり始めた頃、ノートパソコンを持って外に出て砂場に置かれたビーチデッキに座った。そして朝陽が出るのを待ちながらパソコンを起動させた。ちょうどパソコンが立ち上がった時、海の向こうの地平線にぼんやりと広がる雲の上に太陽が顔をのぞかせた。その時に僕は思ったのである。40代は本を表現活動の中心にしようと。

あれから5年。反対され続けながらも、あきらめずに書いてきた。そして、ようやく初めての本が今年の夏に出版されそうだ。ようやく僕が本を表現媒体にするスタートの年となる。理由?未だによくわからない。
「ここまで読ませておいて理由がないってのもないんじゃない?」
と言う声が聞こえてきそうだが、本を表現媒体にしながら、理由を探るのも悪くない…とも思っている。